留学

19歳の引越し

ふと留学時代のことを思い出していた。

アメリカの英語学校に通っていたが、ようやく短大の正規入学が決まり、その学校がある町へひとり引越した時のこと。

その頃、恐らく日本人には信じられないくらいのす~んごいオンボロ中古車に乗っていた。
日本だったら絶対に車検には通らないくらいのハンパないボロだった。

それを方向音痴の私が、聞いたこともないド田舎の町に向かって地図片手に結構な距離をひとり走らせての引越しだった。

今思うと恐ろしいことである。
よくたどり着けたなあと今さらながら思うのである。

だっていつ故障してもおかしくない車だったし、第一、前記した通り私は方向音痴なのだ。
迷って車が故障して途方に暮れるなどということを想定しなかったのか。

若者たるパワーだろうか。
いや、何も考えていなかった、ただそれだけのことだろう。

町に着き、とりあえずの寝床を確保する。
アメリカではモーテルと呼ぶのだが、ただベッドとお風呂場とトイレがあるだけの安く泊まれる質素なホテル。

たまたま選んだそのモーテルのオーナーの老夫婦がとてもよい人だった。

外国人が他の町からやってきてこれから学校に通う。
自分のこれから住むところを探すまでモーテル暮らし。
そんな私の状況を憐れんで(?)くれ、キッチンつきの部屋を提供してくれたり、毎朝おくチップを手付かずにして受け取らなかったり。

初めてアメリカという異国でひとりぼっちを感じ、究極の寂しさ心細さを味わっていた時の、身にしみわたる親切だった。

しかし。
わけの分からないヘンピな小さな町へ住むところも確保せずに、しかもコキタナイ車ひとつで無計画に引越しをする。
そんな無謀なこと、やはり何も考えていない人間ならではの成せる技だろう。
バカもたまには役に立つのだ。

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肥満大国

アメリカに留学していた頃は、今では考えられないくらい、ジャンクフードに慣れ親しんでしまっていた。

アメリカ合衆国の代表的 “文化” ジャンクフードは、そこで生活をしている限り避けて通れないだろう。

ハンバーガー、ピザ、ドーナッツ、アイスクリーム、パンケーキ、チョコ、クッキー、、スナック菓子、炭酸飲料。
ありとあらゆる低栄養・高カロリーのものが安く、しかもボリュームたっぶりに売られている。

ファーストフード店で、ドリンクのサイズを 「L」 と頼んでしまえば、バケツのようなカップのドリンクを手渡される。

ポップコーンやポテトチップも、日本のお祭りで売られている綿菓子の袋の何倍もある、ちょっとしたクッションになってしまうかのような袋で平気で売られている。

さすがにそういうのにはヒイテしまったが、でも甘系のものはよく食べてしまった。

「朝食のドーナッツなんて甘すぎてありえな~い」

なァんて思っていた私も、あっという間に慣れてしまった。
アイスクリーム、パイ、パンケーキ等、それぞれ専門のファミレスのようなお店があったりして、まァァ~おいしいのなんの。

そりゃ太るわな・・

それでも私のレベルはまだまだカワイイもんなのだ。
日本人サイズで食べてるし、 “ジャンキータイム” という区切りもあった。
アメリカ人なんて年がら年中、無差別にでジャンキーではないか。

ある週末の朝、パンケーキ屋さんに朝食を食べに行った時、向こ~うのテーブルにおばあさんが座っていた。
どのくらいの年かよく分からないが、なにしろ “高齢” と言っていいと思う。

そんなおばあさんの目の前に運ばれたパンケーキには、ゴッッッテリのホイップクリームが遠慮なしにてんこ盛りに盛られていた。

遠くのテーブルなのに、そのクリームの白い山が私にもよおく分かるほどの量なのだ。

朝よ?
おばあさんよ?

アメリカだ・・・

これにも少しヒイテしまった私。

帰国後は、幸いジャンクフード癖はきちんと治ったが、今考えるとあのジャンキーぶりには身震いがする。
若いからまだ代謝もできていたのだろう。
もし今それをやったら、もう・・・
目も当てられないムゴたらしい惨状間違いなし。

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スゴイキャンプ

アメリカ留学時代、ひとつ貴重な体験をした。
サバイバルキャンプである。

その当時私はカリフォルニア州のサンフランシスコ郊外に住んでいたのだが、そこからセスナでお隣のネバダ州まで行き、なぁ~んにもない乾燥地帯のど真ん中でキャンプをするのだ。

お目当ては川の一ヶ所で温泉が湧き出ているという “Hot Spring Creek” という川。

セスナ操縦はアメリカ人の弁護士さん。めちゃめちゃ頭がいい。 なのにすごく気さく。 この人の企画のキャンプだった。
彼に任せればキャンプも空の旅も大丈夫だろう、と誘いに乗り、計4人で決行した。

お目当ての “オンセン” は果たしてあった。 
人がよく来るらしく、その温泉が湧き出ている温かいところだけ、石で囲んであった。

そんな感じでアメリカで初めて体験した “オンセン” を楽しむまでは良かった。

忘れてはならなかったのだ。
そこはネバダ州の内陸地帯だったということを。
砂漠気候というのか、とんでもなくハンパじゃない日差しの炎天下で、無知な私は帽子も被らず、日焼け止めクリームも塗らず、ただただはしゃぎまくっていた。

今考えれば、あれは世に言う日射病だったのだろう。
ほどなくしてダウンしてしまった。

そこでなにが苦しかったかって、持ち合わせていた飲み水が十分になかったこと。
日陰がなかったこと。

地平線に広がるのは、ウェスタンの映画で見るような潅木だけ。
なんとか一本高い木を見つけて、そこの日陰でずーっと寝ていた。

あの時の、水を気が済むまで思いっきり飲みたいという強い強い衝動。忘れられない。
この時に水のありがたさを深く深く思い知った。  皆さん、水は大切に。

もう一つ忘れられないのは夜、潅木の間に寝袋ひとつで寝るとき見上げた星空。
星がびっちりなんてもんじゃない! 星の点点で空の隙間がないくらいだった。
あんなダイナミックな美しい星空を見たことは、後にも先にもその時だけだ。

いくつもいくつも流れ星が落ちて、何個見れるか数えた。いくつまで数えたかは忘れたけど。

そして、無事帰宅はしたのだが、もうひとつの試練が待っていた。
全身日焼け。というより火傷。
頭の地肌、顔、水着で覆われていた以外の全ての肌、マッカッカ
痛さと痒さで黙っていられないのだ。
辛くて辛くてホンットウに大変だった。

しかし。
アメリカはデカかった。

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ホームステイ

アメリカに留学して最初の5ヶ月間はホームステイをしていた。
その間、3回場所を変えた。

一番最初の家は、お母さんと11歳の女の子の二人暮し。
その女の子がお人形さんみたいにかわいくて人なつっこくて、そしてびっくりするほど早口だった。

そこの家では犬を飼っていて、毎日夕方になるとその女の子が散歩をさせ、私もよく一緒に歩いた。

道路を渡るとき、彼女が必ず一時停止して犬に向かって厳しい声で

「ヒヨ!!」

と叫んでいた。
どういう意味なんだろう?と思いながらも 「ヒヨ・・ヒヨコのヒヨね・・」 と一生懸命覚え、時々私もやらせてもらった。

「ヒヨ!」

犬は聞き取ってくれていた。ピタッとくっついて歩くのだ。
彼女のしゃべりの聞き取りにだんだん慣れてきた頃、それが

「Here!」

だということに気づくことができた。
たかだか 「Here」 が聞き取れないくらい最初はえらく戸惑ったものだ。

二番目のホームステイ先は来月に結婚を控えているという婚約者同士の家庭。
若いカップルで、お父さんお母さんというより、お兄さんお姉さんという感じだった。

私が金縛りにあったことがある、という話から始まり、日本のおばけの話をしたことがあった。
彼らにしたら霊体験など遭った事も聞いた事もなかったらしくて、お姉さんの方は異常に怖がってしまった。

結婚式を挙げるまでは寝室は別、というスタイルをとっていたお姉さんだったのだが、その日だけはどうしても怖くてお兄さんの寝室で寝たくらい、怖がらせてしまった。

三番目はモルモン教の家族。子供が5人いた。
でも両親は別居していたのでお母さんだけだったけど。

お母さんが忙しい分、長女と長男はすっごくしっかりしていた。 まだ小学生くらいだったのに。
その長女が作ってくれるパンケーキがすっごくおいしくて、これでアメリカのパンケーキのファンになった。

この3家族ともいい人たちばかりで、それぞれの特徴があっておもしろかった。
ステイ先でのもめ事、トラブルをしょっちゅう耳にしていた中、私のホームステイ運は良かった方だと思う。

というか、私が鈍すぎて普通の人が嫌だと思うことも嫌なこととして認識してなかっただけだったりして・・・

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中高の数学に感謝

今、週一で塾で英語を教えているが、近い将来中学の数学も教えることになっているので、現在必死におさらい中。

ああ、こんなことやったなあ。ああ、そうだったそうだった。
こんな言葉の繰り返しである。

しかし、難しい・・・
よくこんなの、中学生でやってたよなあ、としみじみ思う。

でも確かにそうなのだ。
今でこそその一位の座を取られそうか取られたかでちょっと押され気味だが、それでも世界的に見て日本の数学のレベルの高いことに変わりはない。

日本で学んだおかげで、私もアメリカでの留学先の学校でマジで助かった。数学の授業で楽に単位を稼がせてもらったのだ。
他の授業で苦労していただけに、これはホンットウにありがたかった。
話ちっちゃすぎる?

学期の始めは、どの授業を取るかお試し期間があるのだが、数学を取るのにアメリカの大学ではどのレベルがいいのか見当もつかず、とりあえず一番ランク下の数学の教室に行ってみた。

そうしたら、生徒達と先生の間でマイナス同士のたし算についての質疑応答が激しく飛び交う場に身を置く結果となった。

「どうして-2と-2を足すと-4になるんだ?!」

「こう考えてみよう。いいかい、ここに温度計があるよね・・・」

すぐにでも教室を出たかったが、見ていておもしろいと言えばおもしろかったので、とりあえず一時間つきあった。

結局、必須枠の中では一番上の数学を取ったはず。
それでももう習っていた内容だったので、中学~高一くらいのレベルだったように思う。

そのクラスには日本人はおろかアジア系の生徒も1人もおらず、1人だけ毎テストAを取っていた私に羨望の目が集まった。
日本でもう習った、とは口が裂けても言わなかった
言ったら一気にヒキョーモノ扱いされるじゃないですか。
でも、他の教科の本は英語だらけでチンプンカンプンなのだからこれくらいは許して・・・と心の中で言い続けた。

そんな夢のような授業は一学期で終わってしまった。

こんな経験から私は、今の数学の苦手な生徒達にも文句を言わず日本のレベルで頑張れ!と強く言いたい。
そのおかげで留学先では数学だけはラクしていい成績で大きい単位が取れてクラスの中で優越感に浸れたのよ、というエゴの塊のような説明は当然抜くが・・・

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bombという単語を覚えた日

アメリカでの留学時代、さすがは“アメリカ!”と思うことは山ほどあった。
その一つ。
やっと短大に入学したその場所での事だった。

そこは、田舎育ちの私ですら経験したことがないくらい、ド田舎だった。
とにかく、周りにはな~~んにもない。これはマジで。
広大な大地にポツン、とその学校だけがあった。
車で20~30分くらいの距離3方向にそれぞれ小さな街があり、皆その3つの街どれかから来ている。

(ちなみに私はその3つの街のどれにも住んでいなかった。一体どういうこと? これもかなりアメリカンなので、また今度)

そんな田舎の学校で起こったのだ。
爆弾脅迫事件が!!!

その時私はキャンパス内の本屋にいた。
新学期が始まると、生徒はどの授業を取るか“お試し期間”中に気になるクラスに参加し、登録するかしないか選ぶことができる。
正式にそのクラスに登録したら、そのクラスが指定している教科書をキャンパス内の本屋で自分で買ってくる。
私は、まさにそれをしていたのだ。

その最中、スタッフのおばちゃんが寄ってきて、手にとってチェックしている本を私から丁寧に奪い取り、即行学校から出るように言ってくる。

何を言ってるの、アタシャ外国人なんだから、教科書読むのに人の何倍も時間かかるのよ。
今日絶対買いたいの~。

おばちゃんはニコリともせずに

“This is very important."

とだけ言って、やたらと威圧的だ。

納得できないまま帰路につこうとして車に乗ったら、キャンパスを出ようとする生徒の車で大々々渋滞。
ますますわけが分からない。

結局、爆弾をしかけた、という脅迫電話があったのを後で知った。

ただの脅しで爆発は起こらなかったが、脅しとしても日常生活に平気で爆弾が現れるなんて・・ なんちゅー国だ・・ と驚かずにはいられなかった。

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いざ、憧れの地!

学生時代、アメリカに留学していた。現地の英語学校へ入ってから短大を卒業するまで、初体験ばかりをギュウゥ~っと詰め込んだ時代だったと今思う。

まず、渡米してロサンゼルス空港に降り立ったのだが、ショッパナから迷子になった。

友人が空港まで迎えに来てくれてはいた。だけど、その友人に会うにしたって云々の手続きをしなければ到着ロビーにはたどり着けない。

こっちは花も恥らう18歳。英語もわからない。飛行機なんて、ましてや国際線なんて一人で乗ったことない。何をどーすりゃいいの状態である。

途方に暮れた。

彷徨いあぐねた果てに、奇跡的にも手続きを済ますことができ、やっとの思いで荷物を取りに行った。でも、とっくにコンベアから下ろされていて、私の荷物だけ隅~っこの床にポツネンと置かれていたのをよく覚えている。どのくらい長い間、持ち主が現れなかったかを物語っていた。

その友人との再会を楽しんで数日後、ホントの私の留学先へ向かった。またあの恐怖のロサンゼルス空港からだ。

彼女にに空港まで送ってもらって、空港内で一人になったとたん、懲りずにもまた迷子になった。 

この迷子は一回目よりさらにひどく、悪夢のような長い時間を歩き回った。つたない英語で人に聞きまくるが、残念ながらどれも何を言ってくれてるのかさっぱり分からない。 

女の子一人で汗だく、血眼、必死になって歩いている姿が尋常でなく見えたのか、すれ違いのおばさんに

「Are you OK,dear?」

と心配された。なんと言っていいか分からないので無言の微笑を返した。

そんな訳で、もう救いようがないくらいド派手に乗り遅れ、ジャンボでひとっ飛びのハズがボロボロのセスナ機での乗り継ぎ便になり、潰れそうな小さな空港で乗り換えながらも、夜の夜中に目的地に着いた。

どう乗り継ぎの手配をしたのかまるで覚えていない。おそらく航空会社の人達が、見るに見兼ねて全てをやってくれたのだろう。

“おおぉ、アメリカンドリーム!!” 使い方を完全に間違えているが、どうにかしてアメリカを誉めたい、そんな心境だった。

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